960形979

〜或る幸運な機関車〜

1. 緒言

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒、神奈川県西部を震源とするM7.9の地震(大正関東地震)が発生し関東一円に甚大な被害をもたらしました。
鉄道もその例外ではなく、中でも熱海線(現在の東海道線 国府津-真鶴間 11哩4節)は震源から近かったこともあって全線で不通となり、復舊には1年半もの月日を要しました。
(10月13日に国府津-鴨宮間、15日に鴨宮-小田原間、11月15日に小田原-早川間、1924年(大正13年)7月1日に早川-根府川間、1925年(大正14年)3月12日に根府川-真鶴間が開通)

その熱海線で、乗客からは1人の死者も出さなかった列車があります。第116列車、真鶴発東京行の普通列車です。
このページでは、第116列車の牽引機であった960形979がどのような経歴を辿り、如何にして"幸運"と称されるに至ったかを簡単に説明していきたいと思います。

2. 英国から輸入

1889年の東海道線全通に先立って、1888年(明治21年)、英国のBeyer, Peacock & Co. Ltd., Gorton Foundryに12両の2Bテンダー機関車が発注されました。
これが官設鉄道R形で、後に979となる機関車(製造番号2994)は114と付番されました。なお、1893年(明治26年)にはR形81に改番されました。

3. 鉄道作業局D5形81

1898年(明治31年)、鉄道作業局の形式称号規程によって、番号はそのままに形式がR形からD5形に変更されました。

4. 5300形5304

1909年(明治42年)、鉄道院の車両形式称号規程によって、D5形は5300形になり、番号も81から5304に変更されました。
この頃5304は中部鉄道局に配置されていて、東海道線や北陸線を走っていたようです。

5. 2B1タンク機関車への改造

1923年(大正12年)、5300形5304は浜松工場にてタンク機関車に改造され、960形979になりました。
改造後は東京鉄道局の国府津機関庫に配置され、東京-真鶴間の区間旅客列車を牽いていたはずです。
真鶴駅には転車台がありませんでしたから、タンク機関車は重宝したことでしょう。そう、あの日までは……。

6. 大正関東地震発生

1923年(大正12年)9月1日、979は第105列車(東京発真鶴行普通列車 客車6両)を牽いて走っていました。
真鶴駅を定刻で折り返して第116列車となり、長坂山隧道、八本松隧道、江之浦山隧道を通過し寒ノ目山隧道を走行中、激しい揺れが襲いました。大正関東地震です。
この地震によって寒ノ目山隧道の国府津方で土砂崩れが発生し、979は埋没してしまいました(別角度からの写真)が、客車は隧道内にあった為、1両目の上部が破損したものの無事でした。
この事故で乗客3人が軽傷を負い、国府津機関庫の機関手と機関助手が行方不明になりました(約1年後に遺体が発見され、特別賞與金が給與されました)。

7. 旅客の脱出

乗客の死者は出なかったものの、彼らは少なからず動揺していた為、乗務員・運輸事務所員・保線係員らが協力して車外へ誘導し、
(熱海線は当時単線でしたが、複線化を見越して建設されていた為隧道内には十分な空間がありました)
真鶴方から隧道外へ脱出させようとしていたまさにその時、不意に山崩れが起き、運輸事務所員・保線係員各1名と乗客若干名が行方不明となりました。
(約1年後、職員4名(前述の機関手・機関助手を含む)と旅客2名の遺体が発見され、犠牲となった新橋運輸事務所副参事と国府津保線区技手に特別賞與金が給與されました。
なお、旅客の死傷者に対する賠償金や見舞金は支給されていません)

8. 客車の収容と機関車の掘り出し

隧道内に取り残された客車6両は、線路が開通(時期不詳)した後真鶴駅に収容されました。
979は1924年(大正13年)9月10日に湯河原駅まで回送され、修理の上9月18日から試運転、10月1日から営業運転に使用されました。
1925年(大正14年)3月12日には、最後まで不通だった根府川-真鶴間の白糸川橋梁が復舊した事から、第56列車で国府津まで1年半ぶりに帰る事が出来ました。

9. 新聞報道

東京朝日新聞1924年9月25日(木曜日)夕刊2面に第116列車と979に関する記事が掲載されました。以下にその全文を引用します。

 △△△△△
 生埋め列車
  七箇月目で熱海線
   の隧道から掘出す
    近く盛んな回生試運轉式

今度開通する熱海線白絲川鐵橋に
さしかゝる寒目隧道内では震災の
刹那入口の崖崩れで一一六號旅客
列車がボギー車四輛、四輪車二輛
を牽いた儘
 立往生 して約七箇月間
生埋めの姿となつてゐたが此の程
土砂取除け工事と共にその列車は
赤錆だらけの見るも無慙な姿で引
出され幸ひ眞鶴工場で修理が整つ
たのでその當時同列車に乗込んで
ゐて生命を助かつた新橋運輸事務
所の伊藤旅客課主任を始め東鐵局
運輸課、旅客課等から多数の係員
出張し當時
 旅客に 一人の負傷もな
かつたのにあやかり「好運列車」と
して廿八日盛大な試運轉をやる事
になつた
  熱海線
  漸く復活
震災で破壊したまゝ開通に至らな
かつた熱海線は眞鶴、湯河原間の
新線路開通と共に根府川眞鶴間白
絲川橋附近に假乗降場を設け同區
間八丁は約二十分の徒歩連絡を以
て上下四往復の旅客列車を運轉し
手小荷物新聞雑誌(車輛類を除く)
の取扱ひ一般小荷物及貨物は眞鶴
湯河原間の發着のものだけを取扱
ふ事となつた

記事中では客車はボギー客車4両に二軸客車2両となっていますが、「国有鉄道震災史」ではボギー客車6両とされておりどちらが正しいのか判断に苦しみます。

10. 979と仲間たち(国府津機関庫の960形)

震災当時、国府津機関庫には979の他に976(元5323), 977(元5307), 978(元5305), 980(元5306), 981(元5303)が所属していました。
何れも1922年に浜松工場で改造され、東海道線及び熱海線で働いていたと思われます。
このうち977と978は震災当日の状況が判明していますので以下に簡潔に記しておきます。

977: 第109列車(東京発真鶴行 客車8両)を牽引して根府川駅進入中に被災。駅諸共海中に転落しました。(根府川駅列車転落事故)

978: 真鶴駅構内で脱線した事のみが記録されています。大正12年7月1日改正の東海道線列車運行図表(『国有鉄道震災史』に収録されています)を見ますと、
12時台に真鶴駅を出発する上り貨物第60列車がありますのでこれの牽引機だったのではないでしょうか。
確たる証拠はありませんが、倒壊した真鶴駅ホーム上屋の写真の左端に無蓋貨車が写っているのを見て想像の翼が広がってしまいました。
⇒震災直後の真鶴駅を東京方から撮影したと思われる写真が『事故の鉄道史』に掲載されていました。960形らしき機関車とワ、ワ、ト、ワが脱線している様子が写っています。
この写真の出典は土木学会の『大正十二年関東大地震震害調査報告書』という事になっているのですが、この報告書に該当する写真は見当たりません。
多分誤記だと思うのですが……。本当はどの資料から持ってきたものなのか、まだ分かっていません。
代わりに前出の無蓋貨車を別の位置から撮ったものが見つかったのでリンクを張っておきます⇒眞鶴驛昇降場の破壊
⇒ありました!震災直後の真鶴駅の写真
このページを最初に公開したのが(恐らく)2014.8.4なので、8ヶ月以上も探していたことに……。(2015.4.4追記)

何にせよ979が修理されるまでは根府川以西で唯一の機関車だったはずですから復舊工事の力強い味方になったように思えるのですが、そういった話は聞こえてきません。
線路が壊滅した状態ではいくら機関車があっても意味が無かったのか、或いは真鶴以西に工事用の機関車が居て、"唯一"という訳ではなかったのか……?

この他、第112列車(真鶴発東京行 客車10両)が程ヶ谷(現在の保土ヶ谷)-横浜間で留置中(旅客は避難済み)、沿線火災が引火して客車8両が焼失しているのですが、
これの牽引機も960形だったのかもしれません。これまた想像の域を出ませんが……。

11. その後の979

1928年(昭和3年)2月25日に熱海線 小田原-熱海間の電化が完成し、この区間の旅客列車牽引は1040形電気機関車(後のED50)や6000形電気機関車(ED51,52)に取って代わられました。
1931年(昭和6年)には979は仙台鉄道局に異動し、1935年度には廃車されました。

12. まとめ: 何故979は幸運だったのか?

以下の理由が挙げられます。

①旅客から死者を一人も出さなかったこと
厳密には寒ノ目山隧道からの避難誘導中に死者が出ているのですが、これは言わば二次災害であって、"乗客"の死者は一人も出ていません。

②寒ノ目山隧道内で被災したこと
地震発生があと数分遅ければ、白糸川鉄橋を走行中、もしくは根府川駅停車中に被災して山海嘯に巻き込まれていたでしょう。
タイミング良く、と言っては語弊がありますが、客車がほぼ全て隧道内に入っている状態で被災した結果乗客が土石流に呑み込まれずに済んだのです。

③修理され復帰出来たこと
7ヶ月も土砂に埋もれたままだったとはいえ、無事修理され営業運転に復帰出来たのは機関車としてはこの上ない幸運でしょう。
先述の977は10年も海の底でしたから…。(引き揚げられた時の画像)

13. もう一台の979

(2016.1.10追記)
ここから先は全くの余談です。

震災から10年余り経った1934年、中国大陸にもう一台の979が現れました。その名は「パシナ」。
あの南満州鉄道で超特急「あじあ」を牽引していた国産蒸気機関車です。

「パシナ」は全部で12両おり、番号は970~981。ラストナンバーは偶然にも鉄道省の960形と同じです。

その姿は『川崎造船所四十年史』にも掲載されています

14. 絵本の中の979

(2022.1.23追記)

福音館書店から出ている絵本に979の姿があります。
豆相人車鉄道から始まった小田原-熱海間の鉄道の歴史を一冊にまとめたもので、関東大震災については第109列車と第116列車の被災に言及。転落したボギー客車と、土砂に埋もれた979が描かれています。
この時代の機関車で、番号が特定された状態で絵本の題材になった例としては稀有なものではないでしょうか。

15. 参考文献

・鉄道省 (1927)『国有鉄道震災史

・土木学会 (1926)『大正12年関東大地震震害調査報告書

・『土木建築工事画報』第1巻第3号、第1巻第8号、第4巻第7号、第4巻第8号、第4巻第9号。

・『東京朝日新聞』1924年9月25日夕刊「生埋め列車」

・沖田祐作 (2014)『機関車表 フル・コンプリート版DVDブック』ネコ・パブリッシング

関東大震災(大正関東地震)| 1923年9月1日

・横溝 英一(2021)『海べをはしる人車鉄道 東海道線のいま、むかし』福音館書店

1934年(昭和9年) パシナ形蒸気機関車979号が当社製造蒸気機関車の1,500両目となる | 沿革 | 川崎重工 車両カンパニー

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