まずは
このページ
の下から3枚目の画像をご覧ください。大正13年、新製されてから間もない頃の78629の姿です。
彼女はこの三年後、
こうなります
(一番上)。彼女になにがあったのか。それは次の章をご覧ください。
1927年3月7日18時27分39秒、京都府熊野郡神野村を震源とするM7.3の地震が発生しました。
このとき78629は客車4両と共に宮津線第9列車の終着駅である網野駅に停車中であり、
乗客は全員降車していましたが、激震に為す術なく進行方向左側に横倒しになってしまいました。
同年5月に発行された『丹後史料叢書 第2輯』には、震災直後午後七時迄の状況として
「網野に第九列車いる筈なるも通信杜絶のため被害不明」
との記載があり、当時の緊迫した状況が伝わってきます。
この第9列車が停車していた網野駅の下には郷村断層が通っており、駅舎に被害が出ています。以下はその写真です。
なお、網野駅は当時宮津線の終点でした。大正15年12月25日開業の告示が1926年12月18日の官報に掲載されています。
12月25日といえば大正天皇が崩御されたまさにその日であり、記念式典などは無かったものと想像します。
78629 - ナハフ7741 - ナハフ7743 - ナロハ22300 - ホハニ8363
前述のとおり地震があったのは昭和2年3月7日です。
昭和3年10月1日の称号規程改正よりも前なので、これらはいずれも改番前の車番です。
改番後の形式も併せて示します。
ナハフ7741及びナハフ7743: ナハフ7570形 (大正1-3年製造) - 中形客車 (鉄道院基本形客車)
-> ナハフ14100形
ナロハ22300: ナロハ22300形 (大正7年製造) - 大形2AB客車
-> ナロハ11600形
ホハニ8363: ホハニ8360形 (明治30-32年製造) - 雑型客車 (山陽鉄道)
-> 昭和3年2月廃車 (ぜかまし文庫 > 形式図 > 客車形式図 > PDF車歴表より)
前項で挙げた客車の参考写真です。
そのものズバリの写真は見当たらなかったのですが、台車や構成が近い形式の写真を集めました。
山陽鉄道沿線名勝及汽車写真帖 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム
山陽鉄道の中等客車の写真です。ホハニ8360もこれに似た二軸ボギー台車を履いていたものと思われます。
ところでこの892、客車略図 下巻 (明治43年)では三軸台車を履いているほか、窓割も写真とは大きく変わっているのですが、一体何があったのか?
火災により被害を受けた郵便合造車|その他|収蔵品のご紹介|郵政博物館 Postal Museum Japan
同様に二軸台車を履いた山陽鉄道の客車です。
この写真、RM LIBTATY 156 『国鉄鋼製郵便客車(上)』には119形郵便車と書かれているのですが、
客車略図 下巻で欠番になっている郵便車があり、恐らくこれではないかと考えています。
絵はがき(主題別分類:「交通」) - 広島県立文書館(もんじょかん) | 広島県
備後十日市駅にて撮影された写真に山陽鉄道のものらしき客車が写っています。その後ろのボギー車は参宮鉄道か関西鉄道の雰囲気がありますね。
ナロハ22350形改めナロハ21300形の改番前の写真です。大正13年製造。
ナロハ22300形との違いは、車体幅が2,705mmから2,900mmに拡大されているほか、
便所が二等室と三等室にそれぞれ設けられていたのが1箇所のみに集約されています。
復旧された78629は、その後活躍の場を茨城へ移し、1970年4月に水戸機関区で廃車となりました。
その頃に撮られた写真が以下のブログに掲載されています。
1970.3 常磐線水戸地区 さよならSL | なつかしの鉄道写真館
外観上の変化として、デフレクタの取付に加え、福知山では裾の長い乙キャブだったのが、水戸では裾上げキャブになっています。